2011年3月11日から、1年と1日がたちました。
震災について語れるほど、横浜在住の私は苦しい思いも悲しい思いも、心が引き裂かれるような悲痛な叫びも現実では経験していません。
地震の揺れや津波の恐怖よりは、その後の計画停電や放射能汚染のほうが生活に影響を与えたと言えるでしょう。
最大規模の地震が起きた日、私はもうすぐ一歳になる子供と子育て支援センターにいました。
授乳室で他のお母さんたちと談笑している中、グラグラと揺れだし、スタップの掛け声で広場に集められ、
天井の扇風機が落ちてこないようにと気にかけながら、膝の上でスヤスヤ眠る息子の無事だけを考えていました。
2歳くらいの子供達は怖いよ~と泣き、母親たちからもすすり泣く声が聞こえ始めた頃に揺れはおさまり、
建物から出るようにとアナウンスが流れ、震源地が東北であることをしりました。
各自子供を連れ、4階から階段で降りました。
近くの行きつけのカフェに入ると人で沢山、その間にも強い余震が何度かあり、東京勤務の夫とは数時間連絡が取れませんでしたが、無事だという確信はありました。
安全だろうと思っていても、Facebookでお互いの安否確認ができた時にはホッとしました。
揺れが収まった頃に子育て支援センターにベビーカーを取りに戻ることにしました。
もし会えなくなったら。。。と思うと体重既に10kg超の息子をママ友に託していくことは出来ませんでした。
駅の階段を上がり、支援センターまでの階段を上がり、ベビーカーと息子を抱いて下りる。
普段よりも力が出たのには後でびっくり、途中2人小さな子供を連れているママさんに手を貸し、
見ず知らずの人が手伝ってくれた時には、周囲の人の親切心をあんなに深くありがたく思ったことはありません。
その夜はお風呂に入るのも、余震が怖くて出来ず、息子を抱っこひもに入れてテーブルの下に布団を敷いて眠りました。
夫が帰宅した夜中までは生きた心地がしなかったので、地震の最中、二人きりじゃなかったことを感謝しました。
その後は、スーパーから缶詰類、水、パン等が無くなり、買い占めでオムツも手に入りにくくなり、近くのガソリンスタンドには連日朝から晩までクルマが並び、
冷静さを失った人間の怖さを感じました。人ごみに中にいると自分もおかしくなってしまうので、休みをとってくれた夫と公園で子供を遊ばせるか、
家にこもる日々が1週間くらい続きました。
家族揃って入っていたお風呂も、地震の日からは交代になり、その状況はつい最近まで変わりませんでした。
直接打撃を受けた被災地では無い地域で、余震の怖さ、放射能汚染に対する懸念はあっても、一番記憶に残っているのは、
あの地震の日から10日間くらいまでのパニック状態に陥った人々の姿です。
その状態を物欲で落ち着かせようとするかのごとく、何でも買いあさっているギラギラした眼つきです。
現在も関東直下型地震がいつやってきてもおかしく無い状態にあります。
正直怖いです。
でもあの時の経験を踏まえて、冷静に、自分だけ!!とならないように自分をセーブできたらと思います。
日本と共に!!

2011年3月11日、午前、公園にて

その日の夜のニュース
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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Paraguaya-Japonesa radicada en Chile, madre de tres niños, en crianza multicultural.