去る 3 月 23 日、国際基督教大学(ICU)を卒業した。
ICU を知ったのは高校 2 年の春。丁度その頃、海外の国際高校みたいな所に憧れて選考を 受けてみたものの、あっけなく一次試験で撃沈。失意の中、親が見つけて来たのが ICU だ った。
それまで ICU なんて聞いたことがなかった。ただ調べてみると、よく分からないが面白そ うだった。そして高 2 夏にオープンキャンパスに初めて行った時、直感でこの大学が好きになった。東京にいるとは思えないほど緑豊かなキャンパス、オープンな感じ?の学生、学生との距離が近い先生。ってか、普通に外国人が歩いている。それまで思い描いていた大学像とは何かが違くて、何か惹かれた。
地元では、高校の先生でさえ ICU を良く知らない。田舎特有の国立圧力もあり、一時は他 大に流れかけた。しかし、入試で 1 年半振りに ICU を訪れた時、高 2 の時感じた感覚が蘇 った。「俺にはここしかない」と。
こうして ICU に入学したのだが、物心ついた時から日本の田舎で過ごしてきた俺にとっ て、ICU の国際性や自由人が醸し出す雰囲気は実際、入学前の予想を超えていた。その中 で得た経験・思い出は数知れないが、今回は 4 年間で学んだことを 3 つに絞って書き綴り たい。
1. 自分らしくあるために学ぶ
高校生の時まで、勉強は受験のためにするものと思っていた。社会は人を評価する上での尺度を必要とするが、そのために勉強があるのだとも。
しかし ICU が教えてくれたことは、学びこそが自分の武器になるということだ。受験の世 界では、相手が求める答えに忠実である必要がある。例えば歴史なら、教科書が採用して いる通説に挑戦することなど求められていないし、挑戦したところで点数は貰えない。国 語なら、自分がどうその文章を読むかでなく、作者や教科書作成者が望んだ読み方に忠実 であることが求められる。
一方大学では、答えよりもプロセス(自分は何故そう思うのか)が大切にされている。俺 がそれを感じさせられたのは、大学 1 年の終わりにとった日本史の最終試験であった。試 験最後の論述問題を未だに忘れることが出来ない。
1930 年代・日本における軍部の台頭に吉田松陰の影響はあ ったと考えられるか。あなたの考えを論理的に述べなさい。
こんな問題が出るとは予想していなかった。松蔭なんて 19 世紀の人だし、彼の教育を直接 受けた人は大体 30 年代には生きてないはず。でも、影響がなきゃそんな問題出るはずもな い。混乱した。試験後先生に正しい答えは何であったのかを尋ねた。そうすると彼は、正 しい答えなんてないと言った。要するに、自分の見解をいかに説明するのかが大切なのだ と。
一言で「事実」と言っても、それは見る人によって異なる写り方をする。とある問題を否定することは、自分の人生を否定することになるかもしれない。その場合、肯定せざるを得ない。その逆のケースだって有り得る。本来の学問ないし情報の切り取り方や意見は、
異なる見解がぶつかり合う中で発展していくものだ。
まさに 1930 年代の日本軍暴走は、彼らの認識が他の見解を弾圧しながら「日本の認識」と なり、それを多くの人々が無批判に受け入れたことによって起こった。絶対に正しい答え などない。少なくとも、自分自身と向き合いながら真実を探していく作業は、自分の身を 守ることに繋がるし、人間としての信念を築く上で不可欠であると感じる。そういう俺も まだ自分で全て考えられるほど成熟していないのは確かだが、そのことを肝に銘じ、これ からも生きていたいと思った。
2. 欧米≠世界
外から ICU を見るとき、英語教育というイメージがつきまとうのではないかと思う。それ もそのはず、大学 1 年にはひたすら英語漬けになる。学年の 1/4 が 1 年の交換留学に行く が、大半の目的地は英語圏である。ICU に来る留学生も大半は英米か英語をよく用いる国か ら来る。しかし俺が学んだのは、英語や欧米世界を見るだけで世界が分かるという考えは間 違いだということ。
そのことに気付いたのは、大学 2 年の夏にボランティア活動の一環として 1 ヵ月南インド に滞在した時であった。南インドの常識は日本の常識とは大きく異なっていた。手でカレー を食べることは知っていた。でも、自己紹介の段階で相手から自分の宗教を詳細に説明する よう求められる、ゴミ箱を使う代わりに路上に集まったゴミに火をつける…などは考えてもいなかった。しかし、彼らは彼ら自身の行動指針に従って行動しているのであり、そこには 独自の「合理性」が存在していた。更に俺は、ボランティアという行為についても再考する 時間を得た。俺が行った土地は、日本よりもインフラ的には不便であり、人々の生活も物質 的にとても裕福なわけではなかった。しかしそこで人々は実際の生活に満足していたし、識 字率も 90%を超えていた。何より、物乞いを見ることも少なかった。俺が立ち入る隙が無か ったというか、逆にお世話になっている俺がいた。彼らの助けがあったからこそ、俺はインドをフルに楽しめた。その状況の中、奉仕活動をすると公言すること自体が偽善的ではない のか、「先進国」の人間として自分たちの価値観を「途上国」の人々に奉仕という形で押し付けているのではないかと感じた。

派遣先大学の学生と@インド
それこそ、自分が知らない世界に対して興味を持ち始めたきっかけであった。世界には、欧米スタンダードでは分からない何かがあるのだと感じるようになった。そこで交換留学先と して選んだのがチリだった。チリや南米のことなんて全然知らなかった。だからチリに行け ば、自分の知らない世界に出会えるし、新たな思考回路を手に出来ると思った。結果として チリでの経験は、俺の期待を裏切るものではなかった。
人種観には驚いた。特に欧米の多くの地域では、人種差別的発言に対して問題視されること が多いと思う。しかし、チリを始め南米諸国では、人種「差別」という意識がない。俺はチ リで、路上を歩けばチノ(中国人の意)と大声で呼ばれ、知らない人にもニーハオと言われ た。また、目を細めるジェスチャーをされることも何回かあった。しかし、彼らに悪意はな かった。現地民にとっては、相手の見た目通りのことを言って何が悪いのかという意見なの である。現に太り目の女性をゴルディータ(おデブちゃん)、先住民系の浅黒の男性をネグ ロ(黒い人)と普通に呼んでいるのである。相手も悪気はなかったし、逆にそこに親しさを 表現していたため、怒ろうにも怒れなかった。郷に入れば郷に従えであった。
宗教問題も興味深かった。チリの政治はカトリックの影響が強い。その一方、若者たちの信 仰心は薄れている。その中で政権の政策と若者の価値観がぶつかっていた。そしてひどい時 には、路上で警官と学生デモ団体の衝突という形でその不満が現れていた。社会の世俗化と 政治の問題は、まさに国家のあり方が変容していく時期特有の現象だと思うが、それを直接 感じることが出来たのは良い経験であった。
つまり、欧米=世界ではなかった。
3. 社会でなく自分に合わせる
俺は所謂ハーフだ。そして俺はそのことを恥じたことは一度もない。しかし、これまでの人生において、それを前面に押し出さないようにしていた時期も少なからずある。
俺は、6 歳から 18 歳までを地方で過ごした。海があり、気候もマイルド。いい場所だ。し かし、保守的な土地柄であった。母のようなヨーロッパ人はほとんどいない。学校では先 生の権威に付き従うことの美徳を刷り込まれていった。とにかく出る杭は打たれるといっ た体で、目立つことは悪徳であった。その中で、自分を程よく抑えることを学んでいった のだと思う。
しかし ICU では、そのプレッシャーから解放された。皆ある意味変わっている。という か、今まで自分が考え付かなかったようなことをしている人が多かったとでも言おうか。 夏休みをスピノザ読破に捧げてやせ細った哲人、本館をローラーブレードで走りまわって 校則の禁止項目を増やした勇者、キリスト教内で宗教論争を行い始めるルームメイト、ラ ンチタイムにハンモックを木にかけて寝るヒッピー。深夜の学校で始まった飲み会、皆ガチなハロウィン、雪が積もった日に校内でスキーをし始める集団。LGBT であることを普通にカミングアウトしている人に会うことも、それまでなかった。何より計 3 年、学内の グローバルハウスで同棲した皆もキャラが濃かった。そして、「変」の定義が段々と分か らなくなる自分がいた。
ある人から見たら、上記の事柄は普通極まりないのかもしれない。しかし、入学当時の俺 からしたら衝撃的だったと言いたい。自分がしたいことが自由に出来る雰囲気にショック を受けると同時に、段々と自分らしくいれるようになったのだと考えている。 卒業後の進路も、自分の本音に従って決めることが出来た。勿論その道を選択することで 楽になったとは思わないし、より苦しくなることもあるだろう。でも、自分の人生を自分 で生きている心地がするというか、何か日々わくわくしている。この感覚を得られたのは 大きかったなと思う。
最後に
上記に書いた自身の変化は、ICU を選んだからこそのものであったと感じる。勿論、他大学 に行っていても、今とは別のベクトルで進化していたと思う。しかし、今の自分が自分であることを嬉しく思っている。
今年 2 月、ICU のホームページでキャンパスグランドデザインが公表された。そこには、本 館を始めとした歴史的建造物の建て直しや既存自治寮の取り壊し、そして大学の統制が強い 寮の新設が盛り込まれていた。大学の財政的にこれらの変化がすぐ起きることはないのかも しれない。しかしこれから、ICU が持っていた雰囲気は少なからず変わるのではないかと思 う。というのも、他大学とは異なる雰囲気を出していた ICU も、大きな潮流に呑みこまれ、 自身のユニークネスを消しつつある気がしてならないからである。
俺はもう ICU から卒業した身で、学費を両親に払って頂いていない以上、大学の将来につ いてとやかく言う権利がないのかもしれない。しかし、俺は ICU がこれまで与えてくれた 機会に感謝したい。そして欲を言えば、大学で俺が享受できた経験や財産を後輩たちも得ることが出来ればと願っている。
ここまでの自己満記事を読んでくださった皆さんに感謝を。
吉川海